山梨の昔のこと
これは僕の勉強不足もあるのですが、昔の山梨の姿というのが思い浮かびません。昔と言っても、結構な昔の話で、たとえば江戸時代や、さらに遡って鎌倉、平安時代などの山梨の街並み、というのがなかなか想像できずにいました。
なぜかと言うと、浮世絵などであまり山梨(甲斐国)の絵を見たことがなかった、というのもあるかもしれません。あったとしても富士山がメインで、葛飾北斎が割と多くの山梨関連の絵を残していますが、見る機会もなかった(今後ちょっとずつ調べて書いていきたいと思います)ので、映像のイメージとして、当時の山梨、というのがありませんでした。
もっと昔となると、もうさっぱり。文化、というものがあったのだろうか、と思っていたので、『土佐日記』を読んでいて「甲斐歌」という言葉が出てきたときはほんとに感動しました。
甲斐歌は、甲斐国で民謡として伝わってきたもののうち、いくつかが京の都にも届き、二首が古今和歌集にも含まれています。田舎で細々と書いていたものが、都会のほうで、「意外とええやないか」と認められ、採用されたようなものでしょうか。
この『土佐日記』に登場した甲斐歌という言葉で驚いたのは、平安時代の段階ですでに「甲斐」として山梨はある程度ひとまとまりの集団だったんだな、ということ。もう一つは、その場所に歌をつくるという文化的な土壌があったんだな、ということです。
甲斐歌の一つは、「甲斐がねをさやにも見しがけけれなく横ほりふせる小夜の中山」甲斐の山をはっきりと見たいが、心なく横たわっている小夜の中山である、という意味。
小夜の中山は、静岡県掛川にある峠のことです。
この峠が横たわっているので、遠く甲斐の山が見えなくて悲しい、という歌なのでしょう。なぜ歌い手が、山梨を離れたのか、故郷そのものを懐かしんだ歌なのか、それとも故郷に残してきた恋人や我が子を想う歌なのでしょうか。
いずれにせよ、こういう歌が残される文化的な空間がすでにその時代にあったことに感動し、調べてみると『古事記』に登場するエピソードとして、倭建命(やまとたけるのみこと)が甲府の酒折宮に立ち寄り、4、7、7のリズムで問いかけると、その場でかがり火を焚いていた老人が、5、7、7のリズムで返した、という話もあり、この逸話をもとに、酒折は連歌の発祥の地とも呼ばれています。
古事記と言うと平安時代よりさらに昔、奈良時代のもので、日本最古の歴史書とも言われています。
甲斐国というのは一体いつ頃から存在するのか、どういった経緯で文化が育っていったのか、といったことを想像したり調べるのも、自分の故郷のルーツを探るようで楽しいものだな、と思いました。