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歴史

地方 山梨 と寺子屋の歴史

地方 山梨 と寺子屋の歴史

一寸子花里『文学万代の宝』 1844〜1848年

寺子屋とは

寺子屋とは、安土桃山時代から江戸時代にかけて庶民のこどもたちに読み書き計算などが教えられた庶民向けの民間の学問施設のこと。

教育機関としては、武士階級の子供向けの「藩校」、藩校の分校的存在として幅広く受け入れた「郷学」や専門的な知識を学ぶ「私塾」、そして、庶民のための実学を教える「寺子屋」とありました。

この「寺子屋」という呼称は一般的なものではなく、主に上方(京都や大阪など畿内地方)の呼び方で、江戸では「筆学所」や「幼童筆学所」などと呼ばれたようですが、この記事では「寺子屋」と呼称を統一して紹介したいと思います。

まず、「寺子屋」という名前は、鎌倉時代に寺院で僧侶が檀家の子弟に教育をほどこしたことに由来し、起源はまさに文字通りの「寺子屋」です。

室町時代から安土桃山時代にかけ、寺子屋で教える内容も徐々に変化していきます。

最初は手紙の書き方や帳面の付け方であり、そのために必要な読み書きの学習で、対象は主に商人や職人の子供だったようですが、江戸時代に入ると、僧侶や村役人、裕福な町人、武士などによる経営や教育も行われ、読み書き算盤といった日常生活に役立つ知識の他に道徳などの初等教育も教えるように。


寺子屋の数は江戸時代中期以降増加し、幕末にかけて爆発的に急増。幕末の安政から慶応にかけては年ごとに300ヶ所以上の寺子屋の新規開業があり、全国で15000ヶ所を越える寺子屋があったと言われています(一説には20000ヶ所とも言われ、その数は今の小学校と同程度になります)。

戦国乱世を終えた江戸時代では、商工業の発展や文書主義によって実務的な知識の需要が高まり、江戸や上方など都市部を中心に寺子屋が増え、1690年代以降、農村部など地方にも広がりを見せるようになりました。

徳川五代将軍の綱吉は、官学を興すなど学問を奨励、8代将軍の吉宗も寺子屋を保護するなど庶民教育を推進しました。

その後、幕末に向かってさらに寺子屋が激増していきますが、どうやらこれは地方も同じようで、たとえば後でも触れますが私の地元の山梨県でも同時期に急増しています。

急増の理由として、『山梨県教育百年史』では以下の4点が挙げられています。

①商業資本の隆盛で、商人だけでなく職人や農民も文字を知らないと経済競争に遅れる。

②社会人に必要な教養の需要。

③為政者が庶民支配に文字を学ばせる必要が出てきた。

④泰平の世になって文化レベルが高まった。

需要ないしは不安が高まり、自然発生的に開業されていったのでしょうか。それとも為政者が計画的に推進したのでしょうか。

いずれにせよ、幕末に向かって寺子屋が急増した明確な理由というのはわかっていないようです。

この寺子屋というのは、今で言う町の小さな塾に近く、公的な学校とは違います。

寺子屋では、単に勉学を教えるというより、一生の師匠となり、筆子(寺子屋の生徒)たちは師匠が亡くなると共同で墓地を建てる、というのも珍しくなかったそうで、こうした墓地は「筆子塚」などと言います。

寺子屋の先生は、様々な職種のひとがなり、幕臣や藩士、浪人中の者など武士階級だけでなく、医家や書家、僧侶、裕福な町民階級などがつきました。

学校のような校舎はなく、寺院や各師匠の自宅で開かれ、年齢層も9〜18歳と幅広く、特に決まった学年があるわけでもないので個別指導(一人で大変な場合は、兄弟子が指導)が主でした。

明確な入学や卒業時期なども決まっておらず、生徒数も、寺子屋一つで10〜100人とそれぞれに違いました。

武家の子弟は男女別々でしたが、一般的には男女共学で、女子限定の授業もあり、また武家屋敷に務めた経験のあるような婦人の先生もいました。

左上には女性の師匠の姿もあり、背後には茶道や香道などの本


絵を描いたり、取っ組み合いをしている子たちも

先生(師匠)はぼんやり経緯を見守っている様子

入学も卒業もなく、年齢層もばらばらで、師匠ももちろん今のような有資格者ではありませんし、時間割なども決まっていません。だいたい朝の8時頃に寺子屋を訪れ、お昼まで勉強したあと各自家にご飯を食べに帰り、再び戻ってきたら2時くらいまで勉強して帰宅、という形でした。

寺子屋によっては、八つ時(二時)まで通しで学んで、帰ってから軽くなにか食べる、という場所もあったようで、一説には、この八つ時に食べる軽食を「お八つ」といったことが、「おやつ」の由来だとも言われています。

歌川広重『寺子屋遊び』(師匠を驚かす寺子) 1839〜1844年

山梨と寺子屋

それでは、地方の寺子屋事情はどういったものだったのでしょうか。

先ほども少し触れましたが、私の地元である山梨の寺子屋の歴史を追ってみたいと思います。

まず、山梨の制度化された教育「官学」は、発達が遅れ、江戸時代の頃、幕末の不安や農村の疲弊が現れてきた1796年(寛政8年)、城内に「甲府学問所」が創設。

この甲府学問所は当初勝手小普請役の富田富五郎の長屋の一室を使った私塾のような規模の小さいものでした。

その後、1801〜1804年(享和年間)になると入学者も増加、名称は「徽典館(きてんかん)」に改名され、1843年には城外に校舎を新築し、書庫は市民が自由に見ることが許されるようになりました。

この徽典館(きてんかん)は、今の山梨大学の起源となっています。

徽典館は、明治維新の最初期に一時休業したが、すぐに再開され、その後、開智学校、師範学校等と名称と所在地の変遷を重ねつつ(明治10年代には徽典館の名称に復したこともある)、山梨県立第一高等学校や日川高等学校、山梨県立中央病院の歴史とも交差しながら、連綿として現在の山梨大学教育学部へと続いている。

出典 : 大村智記念学術館|山梨大学

これは官学の話ですが、一方、庶民の教育場所である「寺子屋」はどうだったのでしょうか。

寺子屋に関しては山梨も盛んで、古い記録によれば、1578年に今の甲府市上今井にある浄恩寺に「学習舎」が開かれました(やはり「寺子屋」が由来になっているようです)。

その後、江戸時代までに複数の開校例はあるものの、急増するのは江戸末期。明治5年に山梨県が行なった「山梨下各郡家塾及寺子屋調査」では、県内の各地に相当数の寺子屋があったことが分かっています。

甲斐国の寺子屋は、18世紀には10校程度だったのが、1800年代に入ると60校、1830年以降には180という風に、全国の流れと同様、幕末に向かってどんどん増加していきます。

この時代には大規模な寺子屋も存在し、市川大門村で渡井文四郎が開設したものは400名、甲府市でも345名という非常に大規模な寺子屋もあったようです。

まとめ

寺子屋の師匠というものが、庶民の識字率など知識だけでなく人生にまで影響したこと。

なぜか江戸時代末期にかけて急増する傾向がある、ということ。山梨のような地方でも寺子屋の文化が浸透していたこと。

また、この寺子屋開業の動機としては、(それほど儲かるわけではありませんが)生活上の理由もあれば、使命感など慈善的な動機や、共同体として資金を出し合って運営する形態などもあったようです。

エリート教育ではなく庶民教育だったこともあるのか、寺子屋では体罰などもなかった(ただ、あまりにいたずらが過ぎると立たされたり正座させられるなどの罰はあった)ようです。

意外に思うかもしれないが「寺子屋」では体罰の文化はそれほど発達していなかったとされる。悪いことをしたからといって極度に重い体罰を与えたり、覚えの悪い者に対してビシビシと厳しく教鞭を振るうのではなく、教師の側が忍耐を見せながら、ずっと本人の出方を待つ教育だったのである。

出典 : KIJIDASU【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態

格差社会なども影響し、学習塾に通えなかったり不登校のように学校以外の居場所を求める子供たちも増えている昨今、今後は町の人々が身銭を切って開業する、誰でも通える昔の寺子屋のような私塾も増えていくのではないか、と指摘する専門家もいます。

YouTuberのなかには、学校で教える授業のようなことを行なっているひともいれば、Twitterでフォローしているひとの言葉に影響を受けたり、インスタで有名なひとにファッション感覚を学ぶひともいるなど、SNSの「インフルエンサー」というのも、こうした「私塾」の一つとも言えるかもしれません。

山梨県立博物館 かいじあむ寺子屋

ちなみに、笛吹市にある山梨県立博物館では、この江戸時代の寺子屋をイメージした畳敷きの空間で、毎週日曜日には昔の遊びや簡単な工作、紙芝居などの歴史や文化を学ぶことのできる体験学習型イベント「あそぼう! まなぼう! 寺子屋ひろば」が開かれています。

鑑賞券をお買い求めの上、事前予約などは不要で参加できます。

時間帯 毎週日曜 午前11時〜11時半(参照 : 山梨県立博物館

 

参考
KIJIDASU 【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態
山梨県の教育史

山梨にまつわる本