宮崎駿の母親
ジブリの宮崎駿監督は、1941年に東京で生まれ、現在は埼玉県所沢に住んでいますが、宮崎監督の母親は、山梨県の出身です。
宮崎駿監督の母、美子さんは、1910年10月14日に(宮崎監督の祖父に当たる)山本又左衛門の長女として生まれます。この山本家というのは、先祖が甲斐国の大名、武田信玄の家来で、信玄の息子の勝頼が織田との戦に敗れた際に、勝頼の墓を守るためにその土地で百姓になったそうです。
祖父の山本又左衛門は新聞の地方記者で、渓流で釣りをしたり、猟をして熊を仕留めたこともあったとか。
こういう野生の勘の鋭さのようなものが、この一家には割とあったようで、宮崎駿監督含めた四兄弟が「山梨のおばさん」と呼んでいた美子さんの妹は、「失せ物さがし」を頼まれると、見事に当てるという力があったり、宮崎駿監督の兄の新さんも、魚が餌に食いつく前に分かったと言います。
美子さんの性格は、新さんによれば、「気が強く」「おせっかい」「他人に親切」「派手」「気前がいい」「しつけは厳しい」という人で、宮崎作品の『天空の城ラピュタ』で、空族の親分のドーラのモデルが、まさに、このお母さんだったそうです。
画像 : ジブリ『天空の城ラピュタ』
外見は、実際はこんな風ではなく、若い頃の写真を見ると美人だったそうで、その辺りは宮崎監督の照れだろうとお兄さんは語っています。
美子さんは、親戚を頼って上京し、目黒の服飾関係の学校で学びながら、知人の喫茶店で手伝いをし、そこで宮崎監督の父親となる勝次さんと知り合い、結婚します。
面倒見がよく、近所の人が困っていればお金の心配までし、割合に裕福だったため、1954年にテレビが家に来たときは、ご近所の人たちがプロレスを見に家を訪れると、みんなにお茶とお菓子をふるまったそうです。
ただ、先ほども言ったように、しつけは厳しく、叱ることが多かったと新さんは言います。
母は表立ってほめることは少なく、間違いやわがままを叱るほうが多く、怖い存在でした。私などはほめられた覚えは皆無に近く思い当たらないほどです。駿や弟たちが母にほめられているのを見た覚えもありません。
ほめておだてて正すやり方ではなく、叱って正す方法を取っていたようです。『天空の城ラピュタ』に出てくる空族のドーラは母がモデルになっていますし、ひげのあるけんかをする長男が私をモデルにしたそうです(宮崎新)。
出典 : 大泉実成『宮崎駿の原点 母と子の物語』
宮崎駿監督のお母さんは、足掛け9年間のあいだ結核で病床にあり、勝気で厳しいながら病弱である、という面があったようです。
そのためでしょうか、勝気なお母さんが出てくる一方で、『となりのトトロ』のサツキとメイのお母さんや、『風立ちぬ』の菜穂子のような女性も描かれるのかもしれません。
宮崎駿氏は、幼少期に母親の背中に、おんぶしてもらえなかった。母親は結核に侵され、その菌が脊椎にも及んでいたからである。駿少年が、「おんぶしてほしい」と母親に言うと、母親は、「出来ないと」、涙ながらに断ったのだという。
美子さんは、宮崎監督が『風の谷のナウシカ』を制作中の71歳で亡くなり、以後の映画で、ドーラを始めとして自身の母親をモデルとしたキャラクターが登場するようになるそうです。