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山梨県の雑学

紀貫之『土佐日記』と甲斐歌

紀貫之『土佐日記』と甲斐歌

山梨の昔のこと

これは僕の勉強不足もあるのですが、昔の山梨の姿というのが思い浮かびません。

昔と言っても、結構な昔の話で、たとえば江戸時代や、さらに遡って鎌倉、平安時代などの山梨の街並み、というのがなかなか想像できずにいました。

なぜかと言うと、浮世絵などであまり山梨(甲斐国)の絵を見たことがなかった、というのもあるかもしれません。

あったとしても富士山がメインで、葛飾北斎が割と多くの山梨関連の絵を残していますが、見る機会もなかったので、映像のイメージとして、当時の山梨、というのがなかったのだと思います。

もっと昔となると、いよいよさっぱりで、果たして「文化」というものがあったのだろうか、と思っていた際に、『土佐日記』を読んでいたら、「甲斐歌」という言葉が出ているのを見つけました。

甲斐歌は、甲斐国で民謡として伝わってきたもののうち、いくつかが京の都にも届き、二首が古今和歌集にも含まれています。

どういう経緯かはわかりませんが、田舎で細々と書いていたものが、都会のほうで、「意外とええやないか」と認められ、採用されたのでしょうか。


土佐日記に登場した甲斐歌という言葉で驚いたのは、平安時代の段階で、すでに「甲斐」として山梨はある程度ひとまとまりの集団だったんだな、ということ。

もう一つは、その場所に歌をつくるという文化的な土壌があったんだな、ということです。

以下、その土佐日記と甲斐歌に関して、簡単に紹介したいと思います。

土佐日記とは

冒頭「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」の一文で始まる有名な書物が、紀貫之の『土佐日記』です。

小学生か中学生の頃に授業で教わった際、「男もする日記というものを女も試しに書いてみようと思う」と言いつつ、この作者が男性だと知ったときには、全く不思議なことをする人もいるものだな、というのが正直な感想でした。

土佐日記の知識と言ったら、その程度の印象で止まったままだったのですが、大人になってふと、あれは結局一体どんな本だったのだろう、と気になり、ひとまず概要だけでも知りたいと、現代語訳の本を読んでみることにしました。

日本の古典について、ざっくりと知りたいときにおすすめの本が、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシック 日本の古典」シリーズです。

一区切りごとに、現代語訳と簡単な解説文がつくので、初心者でもわかりやすく読みやすい構成になっています。

この解説書によれば、まず『土佐日記』とは、平安時代中期、承平4年(934年)に、「土佐守の任期を終えた貫之が、京の自宅に着くまでの55日間の旅を描いた日記文学」とのことです。

土佐守とさのかみとは、今の高知県知事に相当するポストで、官吏(役人)だった紀貫之は、延長8年(930年)に土佐守に任官します。こうした一国の行政に従事する地方官のことを「国司」と言います。

この土佐守だった紀貫之が、任期を終え、京の自宅に戻るまでを綴った日記文学が『土佐日記』です。

それでは、そもそも一体なぜ、貫之はわざわざ女性のふりをして日記を書いたのでしょうか。

この時代の日記というのは、男性官人による公務の記録であり、漢文で書かれるのが普通でした。

しかし、『土佐日記』は、全編ひらがなです。ひらがなは、当初女性に用いられ、会話や和歌を描写するのに適した言葉で、このひらがなによって「男もすなる」日記を書くことで、新しい文学を創始する狙いがあったと言われています。


漢文では表現できない繊細な部分が、ひらがなを駆使することによって描写できると考えたのでしょう。

甲斐歌

さて、この『土佐日記』の序盤、ひょんなことから甲斐国(山梨)に関する記述も少しだけ登場します。

またある人、西国なれど甲斐歌などいふ(ある人は、ここが西国であるにもかかわらず、東国の甲斐歌などをうたいます)。

出典 : 紀貫之『土佐日記 ビギナーズクラッシクス』

甲斐歌というのは、甲斐国に伝わる民謡のうち、都に伝わって宮廷歌謡となったものを指します。

平安時代には、東国(関東地方)の民謡も宮中の行事や神社の祭りなどで、「東遊あずまあそび」として歌われるようになりました。また、こうした歌は、風俗歌とも言います。

平安時代前期の和歌集である『古今和歌集』には、東歌と題して、陸奥歌、相模歌、常陸歌、伊勢歌、甲斐歌など14首が収められ、そのうち甲斐歌は以下の二首となります。

①甲斐がねをさやにも見しがけけれなく横ほりふせる小夜の中山

甲斐がね→甲斐の山、さやに→はっきりと、けけれなく→心なく、横ほり→横たわる、意味は、「甲斐の山をはっきりと見たいものだが、心なく横たわって見せてくれない小夜の中山である」。

②甲斐がねをねこし山こし吹く風を人にもがもやことづてやらむ

ねこし山こし→嶺を越し、山を越し、意味は、「甲斐の山々を越えて吹く風が人であれば言伝を頼むのに」。

古今和歌集収録の甲斐歌の一つ、「甲斐がねをさやにも見しがけけれなく横ほりふせる小夜の中山」とは、現代語訳すれば、「甲斐の山をはっきりと見たいが、心なく横たわっている小夜の中山である」といった意味になります。

小夜の中山とは、静岡県掛川にある峠のことです。

この峠が横たわっているので、遠く甲斐の山が見えなくて悲しい、という歌なのでしょう。

なぜ歌い手が、山梨を離れたのか、故郷そのものを懐かしんだ歌なのか、それとも故郷に残してきた恋人や我が子を想う歌なのでしょうか。

さて、土佐日記の「またある人、西国なれど甲斐歌などいふ」という一節が書かれるのは、別れの際にそれぞれが歌っている一場面で、ある人が甲斐歌を歌ったことから、ここは西国なのにもかかわらず東国の甲斐歌を歌うのはちょっと場違いだと冗談めかしてからかっているニュアンスのようです。

ただ、このとき、甲斐歌のうち、どの歌を歌ったかは、『土佐日記』本文には解説はありません。

いずれにせよ、こういう歌が残される文化的な空間がすでにその時代にあったということになります。

さらに調べてみると、『古事記』に登場するエピソードとして、倭建命やまとたけるのみことが甲府の酒折宮に立ち寄り、4、7、7のリズムで問いかけると、その場でかがり火を焚いていた老人が、5、7、7のリズムで返した、という話があり、この逸話をもとに、酒折は連歌の発祥の地とも呼ばれています。

古事記と言うと、平安時代よりもさらに昔、奈良時代のもので、日本最古の歴史書とも言われています。

甲斐国というのは一体いつ頃から存在するのか、どういった経緯で文化が育っていったのか、といったことを想像したり調べるのも、自分の故郷のルーツを探るようで楽しいものです。

以上、全く関係ないと思っていた『土佐日記』のなかに甲斐国(山梨)という文字を見たので、ちょっと嬉しくなって行ったメモがてらの記録でした。

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