山梨県の雑学

紀貫之『土佐日記』と甲斐歌

紀貫之『土佐日記』と甲斐歌

土佐日記とは

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

この一文で始まる有名な書物と言えば、もちろん紀貫之の『土佐日記』です。小学生か中学生の頃に授業で教わった際、「男もする日記というものを女も試しに書いてみようと思う」と言いつつ、この作者が男性だと知ったときには、まったく不思議なことをするひともいるものだな、というのが正直な感想でした。

土佐日記の知識と言ったら、その程度の印象で止まったままだったのですが、大人になってふと、あれは結局一体どんな本だったのだろう、と気になり、ひとまず概要だけでも知りたいと現代語訳の本を読んでみることに。

日本の古典についてざっくりと知りたいときにおすすめなのは、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシック 日本の古典」シリーズです。一区切りごとに、現代語訳と簡単な解説文がつくので初心者でも読みやすい構成になっています。

この解説書によれば、まず『土佐日記』とは、平安時代中期、承平4年(934年)に、「土佐守の任期を終えた貫之が、京の自宅に着くまでの55日間の旅を描いた日記文学」です。

土佐守(とさのかみ)とは、今の高知県知事に相当するポスト。官吏(役人)だった紀貫之は、延長8年(930年)に土佐守に任官します(こうした一国の行政に従事する地方官のことを「国司」と言います)。

この土佐守だった紀貫之が、任期を終え、京の自宅に戻るまでを綴った日記文学が『土佐日記』です。


それでは、そもそも一体なぜ、貫之はわざわざ女性のふりをして日記を書いたのでしょうか。

この時代の日記というのは男性官人による公務の記録であり、漢文で書かれるのが普通でした。しかし、『土佐日記』は全編ひらがな、ひらがなは当初女性に用いられ、会話や和歌を描写するのに適した言葉です。このひらがなによって「男もすなる」日記を書くことで、新しい文学を創始する狙いがあったと言われています。

漢文では表現できない繊細な部分が、ひらがなを駆使することによって描写できると考えたのでしょう。

甲斐歌

さて、この『土佐日記』の序盤でひょんなことから甲斐国(山梨)に関する記述も少しだけ登場します。

またある人、西国なれど甲斐歌などいふ(ある人は、ここが西国であるにもかかわらず、東国の甲斐歌などをうたいます)。

出典 : 紀貫之『土佐日記 ビギナーズクラッシクス』

甲斐歌というのは、甲斐国に伝わる民謡のうち、都に伝わって宮廷歌謡となったものを指します。

平安時代には、東国(関東地方)の民謡も宮中の行事や神社の祭りなどで、「東遊(あずまあそび)」としてうたわれるようになりました。また、こうした歌は、風俗歌とも言います。

平安時代前期の和歌集である『古今和歌集』には、東歌と題して、陸奥歌、相模歌、常陸歌、伊勢歌、甲斐歌など14首が収められ、そのうち甲斐歌は以下の二首となります。 

①甲斐がねをさやにも見しがけけれなく横ほりふせる小夜の中山

甲斐がね→甲斐の山、さやに→はっきりと、けけれなく→心なく、横ほり→横たわる、意味は、「甲斐の山をはっきりと見たいものだが、心なく横たわって見せてくれない小夜の中山である」。

②甲斐がねをねこし山こし吹く風を人にもがもやことづてやらむ

ねこし山こし→嶺を越し、山を越し、意味は、「甲斐の山々を越えて吹く風が人であれば言伝を頼むのに」。

土佐日記のまたある人、西国なれど甲斐歌などいふ」という一節が書かれるのは、別れの際にそれぞれが歌っている一場面で、あるひとが甲斐歌をうたったことから、ここは西国なのにもかかわらず東国の甲斐歌を歌うのはちょっと場違いだと冗談めかしてからかっているニュアンスのようです。

ただ、甲斐歌のうち、どの歌をうたったかは『土佐日記』本文には解説はありません。

以上、全く関係ないと思っていた『土佐日記』のなかに甲斐国(山梨)という文字を見たので、ちょっと嬉しくなってメモがてらの記録です。