太宰治が描く甲府の小説『新樹の言葉』あらすじ
作家の太宰治は、自殺未遂や薬物中毒で悩んでいた頃、彼が師事していた井伏鱒二を通じ、甲府で女学校の教師をしている女性と結婚します。
そして、わずか8ヶ月ほどですが、甲府で新婚生活を営みます。1939年、太宰治が29歳の頃でした。
また、甲府市を舞台にした作品も残し、代表的な短編小説の一つが、『新樹の言葉』です。
太宰は、この作品のなかで、盆地である甲府を次のように描写しています。
シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。
太宰治『新樹の言葉』より
盆地の表現が、シルクハットを逆さまにして、と表現するあたりが、とてもおしゃれです。
当時の甲府の街並みも、描かれています。
眼をあげると、大丸デパアトの五階建の窓窓がきらきら華やかに灯っている。もう、この辺は、桜町である。甲府で一ばん賑やかな通りで、土地の人は、甲府銀座と呼んでいる。東京の道玄坂を小綺麗に整頓したような街である。路の両側をぞろぞろ流れて通る人たちも、のんきそうで、そうして、どこかハイカラである。植木の露店には、もう躑躅が出ている。
デパアトに沿って右に曲折すると、柳町である。ここは、ひっそりしている。けれども両側の家家は、すべて黒ずんだ老舗である。甲府では、最も品格の高い街であろう。
「デパアトは、いまいそがしいでしょう。景気がいいのだそうですね。」
「とても、たいへんです。こないだも、一日仕入が早かったばかりに、三万円ちかく、もうけました。」
「永いこと、おつとめなのですか?」
「中学校を卒業して、すぐです。家がなくなったもので、皆に同情されて、父の知り合いの人たちのお世話もあって、あのデパアトの呉服部にはいることができたのです。皆さん親切です。妹も、一階につとめているのですよ。」
「偉いですね。」お世辞では、なかった。
太宰治『新樹の言葉』より
それでは、『新樹の言葉』とは、どういった話なのでしょうか。以下は、ざっくりとしたあらすじになります。
あらすじ
主人公の青木大蔵は、うだつが上がらない貧乏な無名作家で、東京での色々な恐怖を避け、こっそりと甲府で仕事に取り組んでいました。
ある日、郵便屋の男が、突然大蔵に声をかけ、「幸吉さんを知っていますか、あなたは幸吉さんのお兄さんです」と言います。
まったく心当たりのなかった大蔵が不安に思っていると、まもなく訪れた幸吉に、「おつるの子です、母はあなたの乳母をしていました」と言われ、大蔵は乳母のつるとの幼少期の記憶が蘇ってきました。
幸吉とは一度会ったことがあったかなかったか、いずれにせよ不思議な縁の再会を喜んだ二人は、一緒に酒を飲みに甲府の街を歩きます。
甲府銀座と呼ばれる桜町、それからひっそりとしながら老舗が並んで品格高い柳町。
もともと幸吉の両親は甲府で呉服屋を営んでいたものの、母が亡くなり、5年後には父も後を追います。幸吉と幸吉の妹は周囲の世話もあって、すぐ近くの大丸デパートの呉服部に勤めようになったと語ります。
それから、どうしてもこの料亭がいいと幸吉が言う店に二人で入ると、その店が、売り払われた思い出の詰まった幸吉の実家だと幸吉は言い、二人で酒を飲みます。
大蔵は特に酔っ払い、幸吉の妹も途中で迎えに訪れますが、ほとんど記憶のないまま大蔵は二人と一緒に帰路につきます。
二日後、このお店の辺り一帯が火事となり、舞鶴城跡を大蔵は震えながらのぼって街を眺めると、轟々と音を立てながら燃えています。
肩を叩かれ、振り返ると、幸吉兄妹が微笑して立っており、その微笑みに、大蔵は思います。
君たちは、幸福だ。大勝利だ。そうして、もっと、もっと仕合わせになれる。私は大きく腕組みして、それでも、やはりぶるぶる震えながら、こっそり力こぶいれていたのである。
太宰治『新樹の言葉』より
以上が、『新樹の言葉』の簡単なあらすじです。
感想
なんとも不思議な小説です。
結局どういう話か、何がテーマか、と言われると、一言では言い表せませんが、人生の哀愁や、若い希望の芽が、淡々と美しく、そして少し不気味に書かれています。
甲府の街並みはそれほど事細かに描写されるわけではありませんが、小説の最後には、公園の動物園(遊亀公園の動物園がモデルでしょうか)も台詞のなかに登場します。
また、作中で幸吉兄妹が勤めている「大丸デパアト」は、1937年に開業し、山梨の和菓子屋松林軒が事業を引き受けた松林軒デパートがモデルのようです。
このデパートは、地上6階、地下1階で、翌年開業した岡島百貨店とともに甲府のランドマークでした。
松林軒デパートは戦争で内部が損壊し、営業休止。跡地では、ホテルのドーミーイン甲府が営業しています。
太宰治は、結婚して精神状況も落ち着いていた頃だったからか、決してネガティブな作品ではなく(取り立てて明るくもありませんが)奇妙で美しく、面白い小説です。
ちなみに、タイトルの「新樹」とは、若々しい新緑の頃の樹木のこと。この若い兄妹のことを新樹にたとえたものなのでしょうか。